明智光秀

※諸説あり※

生誕:美濃国(現在の岐阜県)

明智城城主・明智光綱の長男として生まれる。

明智家は美濃国の守護・土岐氏の一族で土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕える

父親の明智光綱が亡くなり、明智家の家督を継ぐ

斎藤道三が斎藤義龍と争った長良川の戦で道三側に付いた光秀だが斎藤道三が戦に敗れた為、義龍に明智城も攻め落とされ、諸国を放浪し越前へ逃れる。

光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えた

その間に、医学、鉄砲術や和歌を学び、足利幕府の要人細川藤孝とも知り合う

光秀は朝倉義景を見限り足利義昭/織田信長の両家臣となる

その後光秀は義昭と袂を別って信長の直臣となる

1575年丹波国の攻略を任された光秀は1579年ついに丹波国を平定した

「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と織田信長から絶賛され、近畿地方の織田大名を光秀に寄騎された。 これにより丹波、滋賀軍、南山城を含めた近江から山陰へ向けた近畿方面軍ができ240万石ほどの所領になった。

清洲同盟を結んだ徳川家康が安土城を訪れた際、光秀が接待役(饗応役)に命じられる

【本能寺の変】1582年
毛利征伐の支援を命じられ中国地方に出陣するが途中に軍隊を引き返し本能寺に向かう。雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。

【山崎の戦い】 羽柴軍(羽柴秀吉(=豊臣秀吉))2万7千人(池田恒興4,000人、中川清秀2,500人、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000人※4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人
明智光秀は敗走し坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害した。

明智光秀に関わった歴史人物

明智光秀にまつわる城

基本情報
会社名/施設名 明智光秀城跡
住所 〒509-0213 岐阜県可児市瀬田1238−3
アクセス 【公共交通機関】
名鉄広見線明智駅から徒歩で15分

【自動車】
東海環状道可児御嵩ICから車で10分
マップで見る