織部焼

織部焼(おりべやき)は、桃山時代の慶長10年(1605年)頃、岐阜県土岐市付近で始まり元和年間(1615年-1624年)まで、主に美濃地方で生産された陶器。 美濃焼の一種で、基本的に志野焼の後に造られた。  織部焼の造形、意匠上の特色は、従来の円形を中心とする形の概念を徹底的に打ち破った自在な「形姿」と、描き込まれる文様や その構成が固定の概念にまったく拘束されないとい破天荒な「意匠性」の2要素から成り立っている。こうした方向はすでに先行する志野陶にも示されていたが、 織部焼はこの新機軸を貫徹したといえる。 不整形が基本となるため、成形には型が繁用され、装飾には緑釉と鉄絵が活躍する。緑釉だけのものは総織部、鉄絵併用は鳴海織部(なるみおりべ)、志野風の色濃い鉄絵は 志野織部、黒釉のかかった織部黒、黒釉に鉄絵を加えた黒織部など多様な作風が繰り広げられ、桃山時代の創意ある時代精神をよく示す美術品となっている。 製品は茶碗(ちゃわん)、花いけ、水指(みずさし)などよりは、懐石道具類にその力量がよく表れている。

古田 織部

一般的には茶人・古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下「織部助」の官位に叙任されたことに由来している。「織部正」は自称と考えられている。『断家譜』、『系図纂要』においては、重然(しげなり)。初名は景安(かげやす)。また手紙には古織部、古田織部、古田織部助、古田宗屋と自署した。 千利休の弟子であった大名茶人、古田織部の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。近年まで古田織部が関与したことを示す資料が少なかったが、織部が上田宗箇を介して島津義弘に薩摩焼茶入について自らの好みを指示した書状が発見されたことや、京都の古田織部の屋敷跡から織部焼が発掘されたことから、伝承通り織部が関わっていたことが証明されつつある。

織部焼 代表作

基本情報
会社名/施設名 窯元案内
アクセス 隆月窯
〒509-5202 岐阜県土岐市下石町592-23
0572-57-5200

玉山窯
〒507-0814 岐阜県多治見市市之倉町10丁目209
0572-22-3707

不動窯
〒509-5401 岐阜県土岐市駄知町2457
0572-59-5228
マップで見る