斎藤道三

下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三。 名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。

生年については永正元年(1504年)とする説があり、生誕地についても諸説ある。 『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。 道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。

その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。 油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。

『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。 油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種のパフォーマンスを見せるというもので、美濃で評判になっていた。 行商で成功した庄五郎であったが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。 この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。 その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。 庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。

天文23年(1554年)2月22日から3月10日の間に、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。 しかし道三は義龍よりも、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。

国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対し、2,500の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い9、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わず戦死した。 享年63。

道三塚(岐阜市道三町)

斎藤道三公は長男斎藤義龍公との「長良川の戦い」で討死にし、その遺体が道三塚に葬られた。斎藤家の菩提寺であった常在寺の日椿上人が、現在の地に移し、供養碑を建てたといわれている。

道三まつり

道三まつり(どうさんまつり)は、岐阜県岐阜市で毎年4月に催される祭り。NHKの大河ドラマ『国盗り物語』を機に、商工関係者が創った商業イベントが始まりである。伊奈波神社・金神社・橿森神社を始めとする市内多くの神社の例祭「岐阜まつり」に協賛して行われるため、岐阜市内は祭りムード一色になる。 1972年(昭和47年)に始まり、1980年(昭和55年)頃から岐阜青年会議所や地元新聞社らが地元企業の参加を促進し、みこし広場を開設してみこしパレードを行った。折からの岐阜まつりと重なり、年々華やかになり、現在はメイン行事となっている。現在の主催は岐阜市、岐阜商工会議所、岐阜柳ヶ瀬商店街振興組合連合会などから構成される、道三まつり実行委員会である。

基本情報
会社名/施設名 道三塚
住所 〒502-0817 岐阜県岐阜市長良福光2494
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